2011年 06月 12日
初めてのボランテイァ!南三陸町へ行ってきました。 |
初めてのボランティア。
緊張のせいか直前まで体調がすぐれませんでしたが、
作業を始めたらどこへやら?
精神的なものだったんだなと・・・・情け無い(><)
金曜日23時、溜池山王付近に集合。
全部で120名ほど、3班に別れ出発。
私と元同僚O縄ちゃんの2人はC班、南三陸町に向う。
途中SAで何度か休憩をとる。
あたりがだんだん明るくなってきた。
そして目に飛び込んできた風景は・・・・
もう何度も何度も目にした、あの壊滅状態の町・町・町。
私達が到着した日は丁度震災から3ヶ月目の日だ。
毎日震災のニュースを聞き続け、見続けてきたけれど、
大分がれきの撤去も進んでいると聞いてはいたけれど・・・
それでもこれなのか!と驚く。
軽いものは皆流されてしまったのだろうか?
残っているものは車とか金属製のものが多いように感じた。
南三陸町の防災センターに到着したのは朝7時。
防災センターが始動するのは8時半とのことでしばらくバスの中で待つ。
待っている間、バスの周辺に奈良県警のパトカーが走る。
自衛隊の車が入ってくる。
他のボランティを乗せたバスが次々到着する。
沖縄ナンバーの車が走る。
地域を越えた絆が見える。
ようやくセンターが開くもすぐに行き場所は決まらない。
集まったボランティアの数、天候、需要などなど多くの調整が必要なようだ。
それを采配する人たちも地元の人は1人ぐらいであとは他県の人らしい。
ようやく決まったのはセンターが相手から2時間近くもたっていた。
このボランティアセンターには活動の開始と終わりの都合2度立ち寄った。そして帰りには同僚のS春さんから預かった§シーズみつばちプロジェクト§のお花の種を届けた。
今はがれきだらけの南三陸町のあちこちに1本でも多くのお花が咲きますように!!
私達の行き先は南三陸町・館浜地区に決まった。
震災後一度しか自衛隊が入っておらず手付かずの状態と。
作業内容は道路の片付け、側溝のそうじ。
途中までバスで移動、それ以降はワンボックスカーで3度ほど往復。現場へ。
お寺の前に集合。
その手前にまだ建てて間もない家ではなかったか、家ごと飛ばされてきて倒れていた。
一足先に到着していた別なボランティアグループと合流。
関西弁をあやつるイケメン集団だった。
生まれてはじめて大きなスコップを扱う。
園芸の時の小さなスコップなら何度も使ったが、足を使って掘り下げるような
あんな大きなもの。
それにしてもこの地区、ほぼ壊滅状態。 写真の光景はずっと続き、道路を挟んで建っていたと思われる家々は跡形も無い。
人の気配もない。ボランティアしかいない。
すぐにアルバムが落ちているのを見つける。
震災から3ヶ月。誰かが何か想い出のものを見つけにきていればすぐにでも
見つかるような場所にまだアルバムがあるというのは・・・
きっと想い出をさがす人も残っていないのかもしれないと思った。
その後には携帯電話もあった。
朝から雨。
山用のレインウェアを着用、ゴム長はワークマンで安全長靴という
つま先に金属が入っているものを着用。
手元はコットンの手袋にゴム手袋の重ね付け。
首に巻いたタオルも雨と汗ですぐびっしょり。
私のレインウェアは誰よりも一番働いたように泥だらけになっていた。
しばらくすると天気が回復。今度は暑い!
この日はまだ耐えられる暑さだったけれどこれから梅雨、夏に向かっての
作業は困難を極めるだろう!
暑さ、湿気、悪臭・・・
総勢60名ほどになっただろうか、2時半からその場にあったお寺で
法要があるということでそれまでには撤収しなければならない。
200mほどの道路の両側の側溝にたまった瓦礫、ヘドロを掻き出す。
狭い側溝の中には瓦、お皿、窓ガラス、おもちゃなどなどありとあらゆるものが
たまっている。
まずはそれらを除き、その下のヘドロを掻き出す。悪臭を放っている。
わずかな距離の道路だった。総勢60名ほどの人力が4時間ほどかかって
ようやく水が流れるようになった。
嬉しかった。
もう何度かボランテイァに参加しているという某議員さんの秘書さんが
瓦礫の山の駐車場を片付けた時、白線が見えた時がとても嬉しかったけれど
その時と同じ、水が流れた時が嬉しかったとおっしゃっていた。
ところで今回私が参加したのは民主党震災ボランティア室主催のもの。
丁度朝日新聞の記者が来ていてその記事が新聞にも載っていた。
そして先ほど一緒に行ったO縄ちゃんからネットの記事に私達が写ってる!と
報告が。さっそく見てみたらいました、いました。
左から4番目の水色のジャケットが私、その右のグリーンがO縄ちゃん。
ところでどうして民主党か?って、特に政治に関わる仕事はしていません。
知人に政治家もおりません。
友人の輪によってこの場に立ち合わせていただきました。ありがとうAみちゃん!
作業が終わりバスが止まっているところまで移動。
そこにテントが張られ見るとアルバム、遺留品などが並んでいた。 覗いていると、ボランティアの方から「何か見つかりましたか?」と声をかけられた。
「私はボランティアで来ているのです。」とことわりしばらく様子を見させてもらった。
この地区(私達が作業をしたところからはかなり離れている。)に住む方々だろうか?アルバムをチェックし「OOさんだ!」「OOさんのバックだ!」と次から次へと持ち主が判明していく。
本当に住人同士の絆が強いんだなと感じる。
もし同じ災害が東京に起きたとしよう、私はもうこの場所に10年住んでいるけれど、私のアルバムを見て私の名前が分かる人なんか近所に1人しかいない。同じビルに住む方だ。それでも私の名前をフルネームでは知らない。なんて悲しいことだろう!と思った。
私だって絆が欲しい!そう思った。
一旦ボランティセンターに戻る。報告のためだ。ここでもしばらく時間がかかる。
夕方、大崎市の日帰り温泉に立ち寄り時間調整をする。
その途中、市内を何枚か写真に収めた。
カメラを持っていかなかったので携帯での撮影となるが・・・ 写真の上方、右側にはトンネルが。そこには線路があり、電車が走っていたはず。駅舎もその陰をとどめている。でも無いのだ、線路が。津波は簡単に線路も、電車も奪い去った。 被害を受けたであろうガソリンスタンドがなんとか営業をしていた。看板を立てかけてある右端の車。その中の「津波のバカ!」の文字を見たときには涙がでそうになった。でも「がんばっぺ」に救われた。 とにかく川の右側の左側もどこもかしこも何もかもが破壊されているのだ!
どうしたらいいのだろう!いつになったら人が戻れるのだろう!今回の私の作業はいったいどれほどの役に立ったのだろう!それはもしかしてその側溝の中の50cmかもしれない、いや30cmだったのかもしれない。でもその30cmだって誰かがやらなきゃ、前に進まなきゃ!だ。
バスは日曜日の5時に東京駅に戻った。行く前はあんなに緊張していたけれど、気持ちは随分楽になった。もちろん疲れていないといったら嘘になる。でも行ってよかった。きっとボランティアは現地に人のためと言っているけれど自分のためなのかもしれない。
きっとまた行こう。そう心に誓った初体験でした。
緊張のせいか直前まで体調がすぐれませんでしたが、
作業を始めたらどこへやら?
精神的なものだったんだなと・・・・情け無い(><)
金曜日23時、溜池山王付近に集合。
全部で120名ほど、3班に別れ出発。
私と元同僚O縄ちゃんの2人はC班、南三陸町に向う。
途中SAで何度か休憩をとる。
あたりがだんだん明るくなってきた。
そして目に飛び込んできた風景は・・・・
もう何度も何度も目にした、あの壊滅状態の町・町・町。
私達が到着した日は丁度震災から3ヶ月目の日だ。
毎日震災のニュースを聞き続け、見続けてきたけれど、
大分がれきの撤去も進んでいると聞いてはいたけれど・・・
それでもこれなのか!と驚く。
軽いものは皆流されてしまったのだろうか?
残っているものは車とか金属製のものが多いように感じた。
南三陸町の防災センターに到着したのは朝7時。
防災センターが始動するのは8時半とのことでしばらくバスの中で待つ。
待っている間、バスの周辺に奈良県警のパトカーが走る。
自衛隊の車が入ってくる。
他のボランティを乗せたバスが次々到着する。
沖縄ナンバーの車が走る。
地域を越えた絆が見える。
ようやくセンターが開くもすぐに行き場所は決まらない。
集まったボランティアの数、天候、需要などなど多くの調整が必要なようだ。
それを采配する人たちも地元の人は1人ぐらいであとは他県の人らしい。
ようやく決まったのはセンターが相手から2時間近くもたっていた。
このボランティアセンターには活動の開始と終わりの都合2度立ち寄った。そして帰りには同僚のS春さんから預かった§シーズみつばちプロジェクト§のお花の種を届けた。
今はがれきだらけの南三陸町のあちこちに1本でも多くのお花が咲きますように!!
私達の行き先は南三陸町・館浜地区に決まった。
震災後一度しか自衛隊が入っておらず手付かずの状態と。
作業内容は道路の片付け、側溝のそうじ。
途中までバスで移動、それ以降はワンボックスカーで3度ほど往復。現場へ。
お寺の前に集合。
その手前にまだ建てて間もない家ではなかったか、家ごと飛ばされてきて倒れていた。
一足先に到着していた別なボランティアグループと合流。
関西弁をあやつるイケメン集団だった。
生まれてはじめて大きなスコップを扱う。
園芸の時の小さなスコップなら何度も使ったが、足を使って掘り下げるような
あんな大きなもの。
それにしてもこの地区、ほぼ壊滅状態。
人の気配もない。ボランティアしかいない。
すぐにアルバムが落ちているのを見つける。
震災から3ヶ月。誰かが何か想い出のものを見つけにきていればすぐにでも
見つかるような場所にまだアルバムがあるというのは・・・
きっと想い出をさがす人も残っていないのかもしれないと思った。
その後には携帯電話もあった。
朝から雨。
山用のレインウェアを着用、ゴム長はワークマンで安全長靴という
つま先に金属が入っているものを着用。
手元はコットンの手袋にゴム手袋の重ね付け。
首に巻いたタオルも雨と汗ですぐびっしょり。
私のレインウェアは誰よりも一番働いたように泥だらけになっていた。
しばらくすると天気が回復。今度は暑い!
この日はまだ耐えられる暑さだったけれどこれから梅雨、夏に向かっての
作業は困難を極めるだろう!
暑さ、湿気、悪臭・・・
総勢60名ほどになっただろうか、2時半からその場にあったお寺で
法要があるということでそれまでには撤収しなければならない。
200mほどの道路の両側の側溝にたまった瓦礫、ヘドロを掻き出す。
狭い側溝の中には瓦、お皿、窓ガラス、おもちゃなどなどありとあらゆるものが
たまっている。
まずはそれらを除き、その下のヘドロを掻き出す。悪臭を放っている。
わずかな距離の道路だった。総勢60名ほどの人力が4時間ほどかかって
ようやく水が流れるようになった。
嬉しかった。
もう何度かボランテイァに参加しているという某議員さんの秘書さんが
瓦礫の山の駐車場を片付けた時、白線が見えた時がとても嬉しかったけれど
その時と同じ、水が流れた時が嬉しかったとおっしゃっていた。
ところで今回私が参加したのは民主党震災ボランティア室主催のもの。
丁度朝日新聞の記者が来ていてその記事が新聞にも載っていた。
そして先ほど一緒に行ったO縄ちゃんからネットの記事に私達が写ってる!と
報告が。さっそく見てみたらいました、いました。
左から4番目の水色のジャケットが私、その右のグリーンがO縄ちゃん。
ところでどうして民主党か?って、特に政治に関わる仕事はしていません。
知人に政治家もおりません。
友人の輪によってこの場に立ち合わせていただきました。ありがとうAみちゃん!
作業が終わりバスが止まっているところまで移動。
そこにテントが張られ見るとアルバム、遺留品などが並んでいた。
「私はボランティアで来ているのです。」とことわりしばらく様子を見させてもらった。
この地区(私達が作業をしたところからはかなり離れている。)に住む方々だろうか?アルバムをチェックし「OOさんだ!」「OOさんのバックだ!」と次から次へと持ち主が判明していく。
本当に住人同士の絆が強いんだなと感じる。
もし同じ災害が東京に起きたとしよう、私はもうこの場所に10年住んでいるけれど、私のアルバムを見て私の名前が分かる人なんか近所に1人しかいない。同じビルに住む方だ。それでも私の名前をフルネームでは知らない。なんて悲しいことだろう!と思った。
私だって絆が欲しい!そう思った。
一旦ボランティセンターに戻る。報告のためだ。ここでもしばらく時間がかかる。
夕方、大崎市の日帰り温泉に立ち寄り時間調整をする。
その途中、市内を何枚か写真に収めた。
カメラを持っていかなかったので携帯での撮影となるが・・・
どうしたらいいのだろう!いつになったら人が戻れるのだろう!今回の私の作業はいったいどれほどの役に立ったのだろう!それはもしかしてその側溝の中の50cmかもしれない、いや30cmだったのかもしれない。でもその30cmだって誰かがやらなきゃ、前に進まなきゃ!だ。
バスは日曜日の5時に東京駅に戻った。行く前はあんなに緊張していたけれど、気持ちは随分楽になった。もちろん疲れていないといったら嘘になる。でも行ってよかった。きっとボランティアは現地に人のためと言っているけれど自分のためなのかもしれない。
きっとまた行こう。そう心に誓った初体験でした。
by akirameneesan
| 2011-06-12 21:56
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